人身受け難し、今すでに受く2008/09/29 21:03

 卒業式の時、学校法人浄土宗教育資団を代表して水谷幸正理事長が式辞を述べられたが、「佛教大学は、法然上人の大学です。法然上人の教えは、学部、学科が異なっていても、私たちの奥深くに染みこんでおります。そして、それは、避雷針の様に、今すぐには役に立たなくても、いつかはきっとここぞという大事な時にみなさんの役に立ってくれる筈です。」

 この「避雷針」という言葉が出た時、水谷理事長の横に座っておられた福原学長先生がハッとした表情をされたのをご覧になられた方はいらっしゃるだろうか。

 避雷針という譬喩が適切であるか否か、避雷針は、カミナリ等の災害を避ける為である。法然上人の教えがその様な役に立つのか否か。
 私個人の考えとしては、三帰依文に「人身受け難し、今すでに受く」とある様に、既に私たちそれぞれが人として生まれている限り、仏の教えの恩恵を受けている。つまり、誰もが仏に救われることが出来るということであり、別に避雷針でなくても良いと思う。

 佛教大学で学ぶ、浄土宗を信じる信じないは別として、人として生まれた以上は、全てが平等に救われることが出来るというのが、法然・浄土宗の教えではないだろうか。

 法然上人は、称名念仏が無上であると説かれ、実際に、先日亡くなられた宗庁のエライ上人様も、1日に3万回の念仏を唱えられていたという。

 法然上人が生前の問答として、仏をキチンと理解して1回念仏を唱えられば、それで良いので、何万回と念仏を唱える必要はないのではないかとの質問に対して、凡夫が、必ずしも、仏を正確に観想出来るとは限らない。何人も平等に救われることが私の望みなので、確実に極楽往生出来る方便として、2万回、3万回の念仏を勧めているのだと答えたことが記されている。

 果たして、浄土宗の坊さんが全て毎日、1日も欠かさず数万回の念仏を唱えているとは私には考えがたい。
 1日3万回の念仏を時間で計算すると、一時も休まずに3秒に1回念仏を唱えておらなければならない。

 そんなに難しいことを法然上人が言われたとは私には、思われない。
 毎日念仏する心がけを忘れなければそれで良いのだと思う。

 念仏をいう言葉も誤解されがちであるが、念仏は、称名もあれば、観想も、踊りもある。博物館で阿弥陀仏を見て、美しい仏様だと想うことも、やはり、念仏ではないだろうか。

コメント

トラックバック