こんな本を買う自分自身が「下流人間」なんだ2008/09/05 00:09

『下流大学が日本を滅ぼす』(三浦展 ベスト新書 KKベストセラーズ 定価705円+税)

 あの『下流社会』で有名になった三浦展氏の著作。
 一橋大学社会学部卒で三菱総研等を経てカルチャースタディーズ研究所を設立。
 社会学といっても資本主義的階級観・人間社会の構造をマーケティングするというものの見方をする消費社会研究家である。

 『下流社会』をめぐっては、佛大の広瀬社会学部長と討論したことがあるが、この著作では、階級主義的な差別観というよりも、社会現象として階級固定が進んでいる中で、下流社会と呼ばれるライフスタイルの中で、消費性向がどの様に現れているかといった比較的、客観的で正面から現実を見据えた本であったと主張したと記憶している。
 ところが、この著作を読んで見て、やはり、三浦氏は、程度の低いモノの見方した出来ないというか、やはり、お金儲けの為の際物書きのライターであると思った。

 こんな本を買う自分自身が「下流人間」なんだと情けない気持ちになった。

 この「下流大学」は、斜に構えてしゃべっているというか、「果たして、この男、真面目なのか、それともふざけているのか。」という幾分バイアスがかかった様な書き方をしている点が気になる。

 この本で扱っているのは、大学教育全般のレベル低下である。「下流大学」とは、彼にとっては、Fランクの大学でも一橋でも、「馬鹿な学生」が入ってくれば「下流大学」ということになる。

 大学全入時代になって、AO入試や推薦入学基準の緩和等、高校までのゆとり教育の結果、学生のレベルが低下している。
 その学生のレベルの低下した原因については、その学生が育った、親の社会階層、学歴、生活文化等が背景にあるとしている。

 つまり、本来は、大学に子供を入れるべき社会階層の家庭が無理をして、大学に生活を犠牲にしてまで子弟を入学させる必要があるか。学生数減少で、定員割れ対策に躍起になっている大学のカモにされてまで、人生を棒に振ることはないと述べている。
 つまり、彼の言う「下流社会」の人達は、それに見合った生涯教育のスタイルを求めていった方がよいのではないかと言っている。
 彼の評論の最大の特色は、やはり、下流の学生は、基本的生活力さえも欠けている。この様な人間が果たして大学教育を受ける資格があるのかということになる。
 私は、「下流大学」と簡単に言い切って仕舞うような考え方、弁舌自体が、「下流化」していると思う。
 これは、短絡的なモノの見方しか出来ず、自己中心的な大阪府の橋下知事とも類似している。

 この本の大部分が彼が下流だと見なす学生達への偏見と憎悪の言葉で満ちている。
  こうしたものが、毒舌の形骸というものなんだろうか。

  つまり、毒舌の世紀で述べた様な毒舌スタイル自体が、退化してしまった有様、それが、「下流の社会観・学問観」であると思う。

 一元的な価値基準から外れた対象は全て否定するという存在価値評価が、その背景にあるのだ。

 全国学力テストで、大阪府の高校の成績が最低クラスであったことに、それこそ子供の様に幼稚に、腹を立てる大人げない橋下知事の価値観にも通じるところがある。

 大阪の中高生は、全国の中で、最も大人なのかも知れない。

 だから、こんな全国一律の学力テストに無償で協力させられて頭脳を無駄に消費することに拒否を示している。そこには、文科省の学力価値基準がモノカルチャー化、つまり、下流的な思考にとらわれている状況に対して、明らかに反抗しているのであると見ることは出来ないのだろうか。

 それは、地方軽視、東京一極化の価値観にも通じていると思う。

 一部の資本主義企業エリートの管理者に忠実に従う「牧羊犬の様に機敏で有能な学生」の範疇から外れる学生や彼の言う「無気力な」人文系の教員が存在する大学を「下流大学」をこの世から社会ダーウィニズムの振るいにかけて抹殺すべきだとしているのだと思う。

 高卒の親が日雇い仕事までして息子を大学に行かせることが、そんなにバカなことだろうか。親は、それで満足しているのだし、理想的な学生生活を送れなくても、何か、青年期の人生に役に立つ経験を得ている筈だと思う。

 職業大学の発想は、どうやらフランスの職業大学システムの受け売りでこの発想も30年も古い。

 大学教育の下流化対策として、「オンライン大学で下流を脱出」の項目で、リモートスクールについて取りあげているが、これも既に陳腐化した考え方であり、通学にも通信にも1流の学生もおれば、この著者が下流と呼ぶだろう学生も存在する。
 
 今日、仕事で京都大学のキャンパスを訪問した。

 20年ぶりであるが、そのころの京大は学問の府という感じがしたが、今では単なる企業団地の予備軍である。

 「学問=金儲け」という堕落が、こんなにも、大学教育を「下流化」させてしまった。

 京都大学では、京都議定書が策定されたご本山の土地柄なのに、自動車通学が公認され、工学部の教授がベンツで構内に乗り付ける。
信号も出さないまま歩行路に突っ込んできた。
(時速20キロ以下で走っているのでなんの問題もないという。)

 校舎の床には、チューインガムが吐き散らかしてあって、ベンチにも悪戯かなにか判らないが、ベットリと張り付いている。おかげでズボンが汚れてしまった。

 京都大学に比べて、数段階以上も「下流」の佛大は、校舎はボロボロで、補強工事が必要な状況だが、安心してベンチに座れるし、服も汚れない。 これは、名古屋大学を訪問した時も感じたが、旧帝大系の一流大学の方が、今やボンボン学校という感じがする。

 安心して、カレーライスやカツ丼を注文出来る大衆的な食堂もない。フランス料理のレストランがあっても我々下流のモノには入れない。
 だから、食中毒になりそうな暑い日にもかかわらず、弁当屋が校門の外にたむろして飢えた学生を狙っている。

 上流・京都大学では、学生は、フェアレデーZで校舎に乗り付ける。教授がベンツだったら学生は、Zでもおかしくない。

 同じ京都にある佛大では、ボロボロの自転車とバス通学。
 正に「王様と乞食」、「上流」と「下流」の世界だ。

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